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伊藤若冲Jyakucyu Ito

伊藤若冲の時代と出身地

名前
伊藤若冲

(いとう じゃくちゅう)

時代
1716年3月1日-1800年10月27日
(正特6年2月8日-寛政12年9月10日)

出身地
日本の京都の錦小路



伊藤若冲とは

 18世紀初頭、京都の青物問屋に生まれた伊藤若冲は、少々変わった経歴と逸話の持ち主です。


 江戸時代の京都、若冲が生まれた錦小路は、八百屋や魚屋が軒を連ねる、京の胃袋と称されていた場所でした。
 若冲は幼い頃から絵を描くことが好きで好きで仕方なかったと伝えられていますが、彼が22歳の時に父親が他界し、家業を継ぐこととなります。
 しかし「人の楽しむところ一つも求むる所なく」と京都相国寺の禅僧に評されたほどの若冲は、芸事、酒、女遊びなどの世間の雑事はもちろん、商売にもあまり熱心に取り組むことはなく、とうとう39歳の時に弟に家督を譲って隠居生活を始めてしまいます。


 30歳を過ぎてから、本格的に絵を学び始めた若冲は、隠居後は絵を描くことに専念するようになりますが、とにかく絵を描くことが好きすぎて、絵から学ぶだけでは足りないと、縁側に数十羽の鶏を放し飼いにし、2年以上も鶏の写生を続けたという逸話が残っているほどです。


鶏図[1789年]島根県立美術館所蔵



紫陽花双鶏図


 緻密な描写や美しい色彩で描かれた濃彩花鳥画だけではなく、擬人化した野菜の絵や素朴な人形、版画や石像など、さまざまな芸術作品に意欲的に取り組んでいたとされる若冲。
 水墨画の大作『大書院障壁画』(金閣寺)のような作品から、登場人物を全て野菜で描いた『野菜涅槃図』(涅槃図とは、仏教説話の一場面である、釈迦入滅を描いた図)のパロディのようなユニークな作品まで、さまざまな名作を残しています。


 42歳頃から取り組み始めた『動植綵絵(さいえ)』全30幅は、10年の歳月をかけて完成された若冲の代表作ですが、日本美術史における花鳥画の最高傑作と言われ、現在は宮内庁管理となっており、一般公開の時期にだけ、観ることができます。


『動植綵絵』より「群鶏図」


 また、それとは対照的なもうひとつの代表作は『乗興舟』で、三十石船に乗り込んで眺めた、京都伏見の観月橋から、大坂天満橋までの40キロあまりの淀川の光景を、拓版画として残したものです。
 色々な版で刷った『乗興舟』が、京都国立近代美術館や、千葉市美術館、三井記念美術館、大倉集古館に収蔵されています。

 晩年の若冲は、天明の大火によって私財を失い、大阪に逃げ延びるも生活は困窮し、米一斗と絵一枚を交換するような暮らしとなりました。
 そのため、斗米庵、米斗翁という別号を持ちます。
 しかし、そんな貧困の暮らしも苦にせず、好きな絵を描き悠々自適な晩年を送っていたそうです。
 絵以外の浮世の雑事に全く興味を持たなかったとされる若冲は、一生涯独身を通し、子も持たず、数々の名作を残して84歳で大往生を遂げました。


 伊藤若冲は、鶏の羽毛の表現に『にじみたらし込み』の技法をよく使っていたそうです。『にじみたらし込み』に関しては、『にじみたらし込み』のページを参照ください。


にじみたらし込みへ


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